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ナカラ港とモザンビーク島

リシンガからナンプラに戻った翌日、ナカラ港にアポを入れ、港湾を運営している会社と打ち合わせした。その後、ポルトガル領東アフリカの首都であった近くのモザンビーク島に宿泊した。そこは世界文化遺産の島でもあった。

ナカラ港

Nacala Portナカラ港は、水深が深く、浚渫を必要しない天然の良港であり、内陸国であるマラウイやザンビア、もしくはモザンビーク国内への重要な物流ルートである。


夕暮れのナカラ港

Nacala Port


モザンビーク島(Ilha de Mocambique)で宿泊

ナカラ港ではコンテナヤードまでしっかりと視察したので、港を出たのが午後5時過ぎになった。それから当日の宿泊先であるモザンビーク島へ無かった。

モザンビーク島(Ilha de Mocambique)で宿泊

モザンビーク島は、ポルトガル領モザンビークの首都がロレンソ・マルケス(現マプート)へ移転するまでの首都であった。また、ポルトガル東アフリカ会社の本拠地でもあった。フランシスコ・ザビエルが日本への往復、ポルトガルから喜望峰を回り、この地で季節風を待った。キリシタン大名がローマ法王謁見のため派遣した天正遣欧少年使節(1582年出発、1590年帰国)もこのルートでローマへ行っている。世界遺産に登録されている歴史ある島、歴史的にはケニアのラム島、タンザニアのザンジバル島並んでアラブ・インド交易で栄えた港町である。これらの島と町の様子はよく似ているが、モザンビーク島は、ポルトガルの影響が強く町並みに表れている。現在は人口約1万4千人の観光と漁業の島だ。写真はポルトガルの詩人 Luis de Camoes


島へのアプローチと連絡橋

島だからケニアのラム島のようにボートで渡るのかと勝手に考えていたが、3キロに及ぶ橋が架けられている。幅が狭いので、対向車が来た場合、途中に退避帯がありそこですれ違うことになる。


モザンビーク島の歴史

ヴァスコ・ダ・ガマが1498年にこの島へ到達する以前からモザンビーク島はアラブの主要港湾であり、造船所であった。ポルトガルは1507年にこの島に海軍基地を置き、1522年には現在では南半球で最古のヨーロッパ建築といわれるChapel of Nossa Senhora de Baluarteを建設した。16世紀にSt. Sebastiao砦が建設され、ポルトガル東アフリカ会社の首都としてポルトガル人が入植した。オランダが1607年及び1608年にこの島を攻撃したがポルトガルが死守、インドへの拠点として、また、奴隷、香辛料、金の貿易拠点として栄えた。

その後、19世に入り1869年にスエズ運河の開通、それとともにモザンビーク島の地理的な重要性が失われ、首都はロレンソ・マルケス(現マプート)へ移転した。20世紀に入って、モザンビーク島の北にあるナカラ(Nacala)が商業港の役割を担った。

早朝散歩

早起きには縁がないがこういう島では特別だ。早朝、6時前にさわやかな海風に誘われるように目が覚めた。朝食は8時と言われていたのでそれまでモザンビーク島の早朝散歩をすることにした。両替をする必要もあったので銀行の場所を確認もしたかった。徒歩で十分把握できる距離にあり、島の地理はそれほど複雑ではなく、細長い島なので直ぐに横断できる距離だ。情報はBradt Travel Giuideの地図だけが頼りだった。精緻な地図ではないが、それでもかなり役に立った。

早朝散歩2

住民はモザンビーク人、イスラム教徒が多く、早朝のお祈りなのだろうか、モスクらしき建物へ出入りする人を多く見かけた。町並みは低層、2階建てもあるがほとんどは平屋だ。街路に面して外来者を受け付けない石造りの町並が続くが、開いている門をちょっと覗いたら中庭が見えた。その中には洗濯をする女性や食事の準備をしている生活空間があった。

使ってはいけない銀行のATM

ペンションで朝食が用意されていた、トーストと玉子焼き、インスタントコーヒー等簡単な内容だがありがたかった。その後、先ほど早朝散歩で確認しておいた銀行へ行き、開店時間を待って両替をした。そこまでは良かったのだが、ATMでもキャッシングができると説明があったのでクレジットカードのキャッシングを利用してみたが、これが面倒なことになってしまった。

というのは、キャッシングしたつもりだったが紙幣が出てこない。銀行の説明によれば紙幣が古く詰まるのだという。マプートではそんなことはないが、やはり地方、紙幣の流通量が異なるようだ。係員が来て紙幣を入れ替え、再度キャッシングしたらちゃんと出てきた。

念のため、紙幣が出てこなかったキャッシング証明を後々のことを考えて保管しておいた。帰国したら案の定、二重請求となっていたのでクレジットカード会社へクレームした。4−5ヵ月かかったが、最終的に現金は戻ってきた。文明の利器はこのようなところでは存在したとしても使ってはいけないという事例。

その後、旧税関前にある他のメンバーが泊っている系列経営のペンションでコーヒーを飲みながらこの状況を説明した。

天正遣欧少年使節と聖セバスチアーノ要塞 Fort San Sebastiano

モザンビーク島の北端に聖セバスチアーノ要塞がある。ポルトガル植民地時代の16世紀に築かれた砦で、現在もそのまま砲台が今もインド洋を向いて残っている。朽ちてはいるが当時の姿をよく保っているのではないだろうか、貯水槽もそのままだった。砦の上を歩くと日差しが強く肌を刺す。白い建物と青いインド洋の反射で帽子がないと日射病にでもなりそうだ。

砲台の横に立ち、遠くインド洋を眺める。ポルトガル領東アフリカの首都、過去のこの島の栄華はどんなであったのだろうかと思いをめぐらす。かつてフランシスコザビエルはここから季節風を待って長崎へ向かい、そして、天正遣欧少年使節は長崎からこの島を経由してローマへ行ったのだ。

砦の端に南半球で最古のヨーロッパ建築があるという。それは、1522年に建てられたChapel of Nossa Senhora de Baluarteという教会だ。

当日だったか新聞にこの要塞の修復のため国連を通じて日本政府が資金を供与したという記事が目に入った。この要塞や当時の税関などが朽ちてはいるが当時のまま残っていることと観光資源としては質が高い。イタリア政府は街並み保存で事業を実施していた。

子供たちが売るポルトガルのコイン

聖セバスチアーノ要塞へ行く途中、子供たちがコインを売りにきた。年号を見ると19世紀から20世紀初頭のものだ。シルバー、シルバーと子供たちが囃し立て、これはxドル、これはxドルとモザンビークの通貨でないことを説明する。観光客が多いとは思えないがまったくいないということでもないのだろう。出所を聞くとそれは海だという。海岸に落ちていたり、海の中から見つけてくるのだそうだ。

島の北端に16世紀に建造されたサン・セバスティアン要塞がある。朝食の後、皆で散策へ行った。予備知識がないので臨場感はさほど沸かなかったが、要塞の 縁に1522年に建てられたノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂がある。この礼拝堂は、南半球における現存最古のヨーロッパ建築と見なされている。

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